おもえばとおくへきたもんだ。

 



 なんかあっという間に11月ですよ。

正月だ!暑い!寒くなってきた!と、月日の過ぎるのが早い早い。歳を取ると時間の流れが速くなるというのもあってか、いろいろこれまでの事を振り返ることが多くなったですよ。いささか気が引けるけど、今の自分をカタチ造ってきたものをつらつら書いていきましょかね。遺言じゃないです。ご心配なく。



 幼少期、両親が共働きだったため、いつも祖母と一緒でした。祖母は縫い物の内職でもしてたのでしょうか、いつも裁縫道具が側にありました。道具のでっかい裁ちバサミをオモチャ代わりにして新聞広告の文字を切り抜いたり、店の地図についてる空港マーク(数ミリの飛行機型マーク)を切り抜いたりして遊んでいたのを覚えてます。

折り紙もよく作ったなぁ。ばぁちゃんと花札やってた記憶があるけど、未就学児が花札のルールとか覚えてたんだろうか。今は全く思い出せないけどw

生まれてすぐに腸重積で死にかけたり、雨があたっただけで高熱だしたりと体が弱い子だったので、インドア趣味になっていったのは運命かも。


 親父は本が好きで、我が家には不釣り合いなぐらいの数の雑誌・書籍がありました。なかでもWW2期の戦記物が好きで、周りには戦場写真集や軍人の回顧録みたいな本ばかり。自分も親父の真似をして、まったく理解できぬまま悲惨な戦場写真や戦記物をめくっておりました。

そんな親父に買い与えられた戦車のプラモデルを作るのに、貴重な本を作業マットがわりにしてズタズタにして怒られた記憶が蘇ってきたw

たぶんここがプラモとのファーストコンタクト。1/76ぐらいのちっちゃいジープとかハーフトラックみたいなのを触ってた記憶がある。兵隊さんとか並べて遊んでた。

他にもこのガキは高価な1/350の戦艦大和(当然親父のモノ)を絵の具で極彩色に塗ったりして親父コレクションに悪逆の限りを尽くします。無邪気な子供だねぇ。親父スマンカッタ。

この辺りが軍事関係と読書に興味を持つ下地になってるかな。


 直接プラモデルと向き合ったのは小学校3年だったか4年だったか。従姉妹んトコのおばぁちゃんに¥300円の1/144ガンダムとMrカラーのセットを買ってもらった時。

もう嬉しくて嬉しくて、接着剤で肩が動かなくなった真っ白なガンダムを、夜布団をかぶってバレないように塗ったよなぁ。

当然、強烈なシンナー臭で即効バレて怒られるんだけどもwww


 ガンダムから入ってアニメに興味を持ち、モビルスーツばかりノートにして10冊ぐらい描いてた。ロボの絵は描くの大好きだったけど、人間はまるっきりダメ。この時キャラ絵もちゃんと描いとけば後にマンガの1本も描けた…かもしれん。残念。しかし絵(二次元)とプラモ(三次元)を同時にやってたから、両方の情報を自然とすりあわせて立体的にモノをとらえる感覚が身に付いたかもしれない。今に思うと。

そんなかんじで、小学生時代は絵とプラモ一辺倒の毎日。

とは言え周りできちんと作ってる友達も居なくて(友達が居なかった訳では無い)参考にする現物も無く。教えてくれる先生も居らず。専ら知識はホビージャパンとかコミックボンボンとか。当然プロの書く記事だからハイレベル。

プラ板プラ棒すら貴重で使えるお小遣いも極わずかなちいさい世界で、エポキシパテって何?真鍮線ってどこに売ってるの!?って感じ。そんな小学生にフルスクラッチやレジンキャストの知識とか、もうオーバースペックもいいところだわね。


300円のMSなんて、それこそ半年弄り倒したよ。1/144のドムは500円もしたから買えなかったなぁ。金持ちの倅から1/144ボールのオマケに付いてる1/250?のちっちゃいボールを貰ってフル可動化したりとか。今思い出しても健気で泣けるわー。

コレね。>

こんな少年期だったからこそ「買えなくても自分で作ってやるわ!」の精神が育まれて今も根底にあるんだと思う。コレが一番大きいな。

 そんな反骨精神にも支えられてプラモ制作にのめりこんでいきます。当時ガンプラブームで、近所のオモチャ屋では時流に乗ってプラモコンテストなんてものを開催中。それに片っ端から出品して入賞し、賞品の(売れ残り)プラモをゲットしてました。賞金ならぬ賞品稼ぎ。

そうやって毎度毎度賞品を取り過ぎたせいか、後半は「参考出品扱い」になって選外となり何も貰えなくなりましたとさ。そりゃあカリカリに弄った元手タダのボールを出品されても店は困るわなw

しかしまだまだ子供の自分はそんな扱いを不条理に感じ、大人への反感を募らせちょっと早い厨二病を発症しだしてました(笑)。そんなピュアな小学生時代がボクにもあったんだよ。


続く…のか?


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